バラのつぼみを求める飽くなき記者魂(クライマックスに言及)

構造を学ぶ目的で映画鑑賞会その2
市民ケーン

市民ケーン [DVD]

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何某の人生を冒頭部で短く語り、それはだいたい世間さまの通説であるのだけど、その後、たったひとつの不可解を解き明かすべく何某の周辺人物に聞き込みを行ううち、パズルのピースをあてはめる行為が如く、ひとつの隠された素顔を明らかにする?のか?という様式の、古典と言えるんじゃないだろうか。
(古さとして)
これからはこういう様式を見かけたら「ああ、ケーン式ですね」とコメントすることにする。

しかし、孤独な新聞王の末期の言葉に彼の人生の核があると睨んだ記者シックスセンスと、芳しい成果も得られぬまま(もちろん興味深い一面を新たに剥ぎ取り、得つつ)、追い求め続けとうとうその壮麗なる棺にまでたどり着いてしまう記者魂には、「そおぃっ!」な力業と、映画ならではのライトさみたいなものが感じられる。
登場人物たちはまあ、もう死んだ人のことだから、と思いつつも、それにしたって深刻には描かれていない。しだいに人間味を浮き彫りにしていく新聞王ケーンだって、真摯な空虚をそこに感じることができるのに、彼が見えれば見えるほど遠のいていく感覚。慣れてしまえば大変居心地のいい距離だと思う。
画面の作り、映像の見せ方にも、泥臭さを感じない。2時間はあっという間だった。
「バラのつぼみ」は果たして、少年ケーンが雪深い故郷の街で寒さに竦むこともなく遊んだ木のソリに書かれていた言葉であるが、記者たちはその真実に至ることなく、彼らは彼らなりの言葉で、ケーンを、故人を語る言葉のひとつなどないことを彼らの学習として取材を終える。私たちにはソリの解答が与えられるのに。これはどういう意味?なんちゅう意図?そういうことを考えている。

ざっくざっくばらんに感想を述べると、ケーンは悪くなかった。ケーンがとるべき行動というのはぴんと来ない。避けがたいことばかり。何が誤ちだったのかも、うまく言えない。
それゆえ、かわいそうだったとは思えない。悲劇的ではあるけど。
私はケーンが幼少時代の思い出に一片触れるように呟き臨終を迎えたことは、虚しい心の発端を求め自分の生涯を遡り過ぎて、原体験にまで返っちゃったということなんだろうな、という気持ち。
自分が何を求めているかもわからないなんて、特別なことではないけれど、なまじ何かを得てしかるべき財力を持って、責任を持って(こんだけいろいろやるからにはあなたには何かしらの信念がおありなんでしょう?てな具合に、信念の不在は許されない)しまって、ますます見失っていく。
ムカデが脚の数を聞かれたら、歩けなくなってしまった話みたいに。

39ページに誰かがなにかをこぼした

図書館で借りてきた本だから、どこかの誰かの読書のあとがあった。
いろいろの哀しみ 白石公子

いろいろの哀しみ

いろいろの哀しみ

39ページ目に染みがあった。少し焼けた半紙の色に近い。私はこれはコーヒーかお茶か、何か苦い飲みものの跡ではないかと思った。こぼれた何かを拭おうとしてこびりついたティッシュのわずかな欠片まで残っていた。
私ではない読者は、動揺したんじゃないかと思った。

「おまえはいいね、若くてすばらしいね。毎日、楽しいだろう、いったい幾つなんだ?」
「二十二」
「二十二、信じられないねえ、この世の中にそんな若い子がいるんだね」

ここかな?それは、ちょっと、あんまりかな。
私はこの2ページ前に動揺したばかりだった。
「表情が豊かなのに、どこか冷たい印象を与えるのは、表情の切り替えの早さのせいでもあった。」
動揺して、テーブルにコーヒーをこぼした。
ちょっと、あんまりだろうか。
白石公子の小説は、ここ一月ばかりでぽろぽろと読んでいる。「ちいさな衝動」はタイトルに惹かれ読んだ。「僕の双子の妹たち」はごはんが美味しそうで読んだ。これは本当に美味しそうだったから、読み終わったら悲しくなって家に帰りたくなった。
作家の目は冷やかで、彼女の言葉を授けられた主人公たちの人を視る目というのもいつも的確で、漠然を漠然の儘にしない。この人が私を見たら、どう感じるのか、どう文字に落とすのか、そんなことを考えながら読んでいる。
冷静な観察者のふりをしながら周りを見渡して、けれど主人公だけが人を見ていたわけじゃない、誰かが彼や彼女を見て、何か思ってる。そういうとこに救いがあったり、悲しみがあったり、ときどきぞっとするような裏切りがあったりする。
名前のつけられない感情を乱暴に括らず、催す全てに誠実な書き方だと思う。

燃える棺の伏線(クライマックスに言及)

物語に工夫され散りばめられた構造を見出すことを目的とした鑑賞を行った。そこで気づきを何点か。

閉鎖的な村の、外へと続く国道に兄弟が立っている。
それが、自由への憧れと、しがらみを纏いどこへも行けないのか、行かないのか、いずれにしろ村にとどまる主人公の解放への予感を示し、彼のストレスフルな日常が淡々と説明される。
ともすればうんざりするような、ぱっとしない毎日の情景に、解放に向けた地道な下準備がある。
私の関心は、そこに解放の兆しを予感させつつ、如何にクライマックスのカタルシスの土台となる鬱屈を丁寧に、魅力的に描けるか、という点に向いた。

この映画を横に、Kはエピソードが示す「和解」、「解放」の構図を熱心に説明する。
「和解」についてはここでは書かない。
「解放」こそがこの映画のクライマックスであると同時に、最もすぐれた伏線の回収であると思った。何度もその日常に滑り込む「棺」、肥満体の母の重みに軋む家とその密やかな改装、他人の好奇と嘲りの眼差しにおびえる母の姿、母への気遣いと親愛、そして諦めを抱いた家族。
自由と不自由は、シンプルな二項対立ではなかった。母の死を経て、束縛と保護に強い愛の気づき、それを我がことに受け止める主人公。家と母を燃やし、主人公は町を出る。それは残すべきものと捨てるべきものを選び引き受ける成長の姿として。
兄と弟は、いつまでもいっしょ。

映画中、特に強固な物語の事情を感じたのは、不倫相手の人妻の、その夫の死である。死を契機に町を出る不倫相手。その唐突な死の前に描かれた、子どもを無理やりビニール・プールに放り込む夫の姿。遠景でどこか非現実的。この一連のシーンには不倫相手の退場のために、やや力技と思える流れがあった。

お金がない。でも全然気にならない?

グレート生活アドベンチャー (新潮文庫)

グレート生活アドベンチャー (新潮文庫)

解説の福満しげゆき氏が「そうだったら、いいなー。」なんて締めてしまうので、そうだったらいいなー。
今日、トイレットペーパーを買って帰ってきて、トイレに入って用を足して紙を手に取ったらおかしい、シングルを買ってきたはずなのにこの手ごたえはダブルだと思って、愕然としたけれど、買ってきたトイレットペーパーはまだ封も切っていない。私が尻を拭いたのは家にあったダブルのトイレットペーパーなのだ、何もおかしくないと気づいたら、可笑しくなった。
そうしたら私はどうやって小説を読むか、考えなければな、なんて思ったのだけど、それは誰も知らない。

全てが消えると、泡ももう生まれて来なくなった。ガスが穴から漏れる音がする。鍋の内から外に向かっていた泡がゆっくり動く、動きを止めていく。鍋の底にはパスタが沈んでいる。全ての動きが止まった。死んだ。

「ゆっくり消える。記憶の幽霊」の祥子は30とも思えない。本当に人って成長しないのね。私にとっては祥子さん、まずいよ、なんだか気の滅入る先人、私はあと5年経ってもこうなんかもしれないと思ったらうんざりした。
祥子さん、あなたにはご両親がもういないから、だから私はあなたにはならないかもしれない。でも祥子さん、それ以外は私はあなたによく似てると思った。祥子さん、私最後に見るのがくだらなさの化身なんて小さいおじさんはごめんだな。